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沖縄旅行1 沖縄南部戦跡巡り ひめゆりの塔 旧海軍司令部壕

南部沖縄の主要スポットと言うことで、沖縄戦の戦跡を巡りました。

ひめゆりの塔と旧海軍司令部壕です。 

ひめゆりの塔

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ひめゆりの塔 - Wikipedia

戦跡の中でもトップクラスの知名度を持っている場所だと思います。

米軍が沖縄中南部に上陸した後、日本守備隊は南北に分断されましたが、南側の守備隊が南端部まで追いつめられた際の野戦病院となっていたのがこのガマとなります。狭い洞窟の中に多数の瀕死の兵隊が溢れ、彼らを世話をしていたのが、徴用された女学生を中心に組織されたひめゆり部隊です。彼女たちは砲弾と銃弾が飛び交う中、献身的に奉仕していましたが、それも虚しく米軍はこのガマの入り口にも迫ってきました。

投降を呼びかける放送に反応する者は殆どおらず、殆どが米軍がガマに投入したガス弾や爆弾に斃れるか、自ら手榴弾で自決の道を選んだそうです。

 

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指導員の教師たちは、生徒たちに死の道を選ばせることを躊躇しました。しかし、当時米軍への投降は、嬲りものにされた上での死を意味していましたので、他の選択肢はありませんでした。一方で、知識階級の教師は、米兵がそんなに鬼畜な存在ではないことを米国文学や噂話で知識として持っており、賭けのような気持ちで生徒たちに投降の道を選ばせた教師たちも居たようです。
自分の生命であれば、ある意味自分の覚悟だけでなんとでもなりますが、数十人の生徒の人生が自分の今の咄嗟の判断で決まるとなった教師の気持ちはいかばかりのものだったでしょうか。
生徒たちは、むしろ死の覚悟は出来上がっており、自決を決めた教師に対しては、早期の決行を迫る生徒もいたそうです。

 

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これがガマの入り口。この中に洞窟が広がっていますが、負傷兵を寝かせるベッドを広げられるような平らな場所は殆どない状況で、兵士たちは洞窟の地面に寝かせられた状態、生徒たちは壁にもたれかかるように寝ていたそうです。
その間も休みなく振り続ける砲弾と銃弾。寝れたものでは無かったと思います。そのような中で、過労により倒れる生徒たちも続出したのだとか。

気になったのは資料にあった「ガス弾」という言葉。調べてみると、殆どは白燐弾と黄燐弾ということなのですが、後述の海軍司令部壕跡の資料室に「びらん性ガスでの攻撃を受けた際には云々」の記述のあるガスマスクがあった事と、ここでの記録で「ガス弾攻撃を受けた人が、体は無傷なのに脳をやられて狂乱のうちに死亡」のような記述があったことから、多少の毒ガス攻撃もあったのではないかと思ってしまいます。

勝てば官軍とはよく言ったもので、勝利した軍に対しては東京裁判のような軍事裁判で裁かれることもありませんので、ひょっとしたらという気持ちは残ります。

民間人を根こそぎ有無を言わさず徴用して、それを捨て石として使い捨てた日本軍の行為は当然許されるものではありませんが、殆ど勝負の決した、物量的にも圧倒的優位に立っていた米軍が人道的に許されない兵器を使っていたとしたらと思うと、暗澹とした気分になりました。

旧海軍司令部壕

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kaigungou.ocvb.or.jp

こちらは、海軍の司令部があった壕の跡を公園にした場所です。非常にしっかりとした作りの壕なので、今でも当時のままの状態で残されています。

慰霊塔

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慰霊塔には沖縄防衛戦に携わったすべての部隊が記載されており、戦艦大和の特攻作戦に携わった艦船も記載されています。

資料室の展示では、沖縄戦で前線から上がってくる情報(敵◯◯に上陸、など)や司令部から部隊に発した命令(震洋隊出撃、など)が克明に記されており、非常に臨場感があります。今まで沖縄戦では九州を基地とした航空特攻が行われたのみだと思っていたのですが、震洋や伏龍といった海岸からの特攻も行われたようです。迫撃砲や艦砲から抜き取った火薬で作られた粗末な爆雷を背負わされて敵軍の銃火の中に突撃していった若き兵士たちの気持ちは如何ばかりであったかと心が痛みます。

 

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海軍司令部は、このような高台に有り、遠く海を望むことが出来ます。水平線まで埋め尽くす敵艦船を見つけた時、上陸した米軍がこちらの向かって押し寄せてくる様を見る時、司令部将校の気持ちを考えると胸にこみ上げてくるのものが有りました。

 

太田實司令官の電文

http://kaigungou.ocvb.or.jp/shiryokan.html#denbun

ここへ来たら見ていただきたいのは、いよいよもって司令部を撤退しなくてはいけない際に、太田實司令官が自決の前に本土司令部に宛てた電文です。やむを得ずとはいえ、多数の民間人を徴用して巻き添えにせざるを得なかったことに対するお詫びの気持ちと言われていますが、作戦電文ではない、沖縄県民に対する感謝と尊敬の思いが綴られています。

昭和20年6月6日 20時16分 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、 私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。 沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関し ては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、 県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で 小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺さ れ、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚 悟で、娘を軍に預ける親もいます。 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住 民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。 これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉 仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不 明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。 沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが 焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。 沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいます ように。(この電文は原文を現代文に直したものです。) 

(一般財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー旧海軍司令部壕事業所 のHPより引用)

この後、司令官他数名は壕内で手榴弾や拳銃により自決しており、その際の破片が壕内のコンクリートに穿った傷跡は、今でもそのまま残されています。これは見学することが可能です。

 

南部戦跡巡りはこれで終了となります。

 

沖縄旅行記は、次回以降に続きます。

 

 

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